早稲田大学は、2032年の創立150周年を迎えるにあたり、2012年に中長期計画「Waseda Vision 150』を策定。ご専門である経営工学の研究の傍ら、大学経営にも携わり、Vision 150の策定メンバーの中心の1人として策定に関わった理工学術院 創造理工学部の大野高裕教授に、大学のビジョンとパーパスについてお話をお伺いしました。
(インタビュアー:SMO 齊藤 三希子)
齊藤:本日は、早稲田大学の中長期計画「Waseda Vision150」について、策定から実行まで関わってこられた大野教授に直接お話をお伺いできるということで、楽しみにしてまいりました。よろしくお願いいたします。
まず、先生は、早稲田の附属高校に入ってからずっと早稲田にいらっしゃるとお聞きしましたが、理工学部で教授もしながら、大学の経営の方に関わっていくことになったのはどのような経緯だったのですか?
大野:割と早い段階で32歳のときに独り立ちさせてもらって研究室を持って、授業で習った先生と同僚になっちゃって。対等にできなきゃいけないと、必死で背伸びして突っ張ってましたが、人生が変わってきたきっかけは、友達が教員の労働組合の執行部にいて、労働組合幹部をやってくれと言われたんです。僕は当時会費だけは払っていた感じで「興味ない」と言ったら、「かならず一回は回ってくる」「若いうちにやっておけば後々チョイ役で済む」ということで、引き受けたんですよ。
齊藤:小学校の保護者のPTA決めみたいですね(笑)。
大野:それで、やる気のなさを示そうと思って、第一回の会議をサボったんです。ところがその回は役職決めで、書記長の役が空いているということで、実質一番上で取りまとめて団体交渉する役に(苦笑)!20人いる委員の中でも下から2-3番目の若造だったんで、無理だって断ったんですけど結局ダメで、じゃあ1年だけだったら、って引き受けたら、楽しくなっちゃって(笑)。
齊藤:(笑)どのあたりが楽しくなっちゃったんでしょうか?
大野:会議で「大学はこうあるべき」って各学部の教授が喋っているんですけど、専門分野によって論理の構築の仕方がまったく違っていて、理工出身の自分には何が言いたいかがさっぱりわからない。こういう理屈で結論は何故こうなるか?が理解できなくて。しかし書記長としてはそうはいかないということで、まずは文学部 法学部・・・と各学部の話し方のプロトコルを理解しないといけないんだと。それを分析しはじめて、理解するようにしたらなんだか楽しくて。
齊藤:理系っぽいです(笑)。
大野:それで各学部の要求をまとめて団体交渉に行くんですが、総長や理事といった、当時36歳くらいの自分には雲の上の大先輩の方々を前に、「給料上げろ」とか要求するわけです。向こうは「大野さん、そんなこと言ったって、お金が無いんです」と。それに対して私は「金が無いからできないって、そんなこと私でも言えますよ。それを考えるのが、あんたたち経営者だ」とつい勢いで言ってしまい(笑)。そしたら「大野やるじゃん」と、その交渉の仕方がなんだか評価されたんですね。
それで一年間書記長やったあとに、最終的に要求を承認する中央委員会というところの議長を、その次は理工学部の執行部を、それぞれ2年くらいやって。
大学抗争関与、そして経営へ
大野:そのときに早稲田では、学生運動の生き残りのある過激派セクトが学生サークル活動を仕切っている異常事態が続いていました。それを、当時の奥島孝康という総長が決断して、彼らをキャンパスから追い出す戦いになったんです。
ちょうどその最中に、私は理工の学生担当の教務副主任をやっていて、彼らとの戦いの場に入ることになって、連中と揉み合ってビリビリにされて救急車に運ばれて…そのやられ方が良かったらしく(笑)、理工の学生担当を終えた後、すぐに本部に呼ばれて「本部の副部長として本格的に戦ってくれ」と頼まれて。過激派セクトが占拠していた学生会館を本格的に取り壊すということで、彼らの悪事の証拠の数々を集めて、最後は戦闘態勢で突っ込んでいって、彼らを排除してすべて終わったんですよ。
齊藤:壮絶…!
大野:その後本部から理工に戻ったんですが、2003年、当時、白井克彦総長の下で早稲田がグローバル化を進めていて、今の国際教養学部、全部英語で授業する学部を2004年に立ち上げるというので本部に呼ばれて、留学先などを整備したりする留学センターの所長をやってくれと頼まれたんです。自分は英語も喋れないし、海外人脈もないしと断ったんですが、結局所長を3年、そのあと国際部長を4年、何だかんだ国際部関係で7年間仕事をさせてもらいました。そして、鎌田薫総長に「教務部長をやれ」と頼まれて引き受けた4年間の間に、早稲田のVISION150が策定されるということで、企画を作る中心のひとりとして関わり、そのあと理事になって経営企画担当でVISION150を実行に移すところをやらせてもらったんです。
齊藤:こういった色々なことをされていた中でも研究もされて、先生の体は二つあるんですか?(笑)
大野:同じことだけだと人間って飽きると思うんですよ。だけどありがたいことに、教室で授業を教え、研究もやり、かつ大学の運営もやらせてもらえる。職員や教員、学生など会う人も全然違うし、色々な経験しながら、リフレッシュしてるんだよね。休みなしでやってたけど、全然疲労感はなくて。
齊藤:なるほど。主体的に充実された時間を送られていたのですね。
大野:自分でこれやりたいっていったことはなく、全部頼まれ仕事で、断るのが下手で、面倒だからやっちゃったほうが早いから色々こなしていたら人生ここまできちゃった感じで。自分自身のパーパスなんてないなと(笑)。
齊藤:いや、その中には何か奥底に眠っているパーパスがおありなのではとお察しします。さて、先生の研究についてもお聞かせいただいてよろしいですか。
大野:最初に博士論文で書いたのは、決算書などお金の面から企業評価、企業活動を評価す
ることについて。そこから始まって、原価管理や、90年代に入った頃に、流行りそうな金融工学もやって。結局何のためにお金やコストなどを考えてんだっけ?って上位目的を考えるようになり、それは利益を生み出すことだ、それには売上も増やさないと→買ってもらわないと→それはマーケティングだなと。
90年代から環境マーケティングを提唱
齊藤:いまの時代だと「何のために?」は、存在意義や社会貢献といったパーパス的な話になってくるのですが、当時は、それがお金やマーケティングというところだったわけですね。
大野:いろいろあるマーケティングの中で私は消費者の購買行動を中心にマーケティングサイエンスの分野もやっていたんです。しかし90年代後半くらいに環境問題も大事だとなり、当時は公害防止くらいのイメージだったのですが、企業の担当者を集めて話をしても「金かかるだけで儲けにはつながらない、むしろ利益を減らす要因になってしまう」と言われる。「いやそうじゃない!」と環境マーケティングというものを提唱したんです。
齊藤:そこでついに、パーパス的なもの、環境問題への提唱が始まったわけですね!
大野:それがゆくゆくはブランディングになり、お客を増やしていくことになっていくと。当時はなかなか上手くはいかなかったですが…
齊藤:パーパス・ブランディングの走りですね。90年代後半にそれを提唱されるとはさすがです!
大野:これをマーケティングとしてしっかり掴んでいかないといけないという環境マーケティングの研究もやりつつ、金融のほうではリアルオプションも取り上げて事業価値をいかに高めるかなど、あちこち広がっていってマーケティング系は今も続けています。
齊藤:最近の先取りテーマはどんな感じでしょうか。
大野:いま自分の中でホットなテーマは「食」で、「アグリカルチャーtoフード(A2F)」という造語で展開しています。いわゆる農業といっても作るだけじゃだめで、サプライチェーンやバリューチェーンの観点から、食べる人たちまでのルートの情報が全部つながらないとダメだと。情報システムで、QRコードを開発したDENSOと一緒にどうやって取り入れていくかを研究しています。単に農作物として売るだけでなく、レストランとか加工物とかと掛け合わせると、ものすごい価値が生まれてくる。農業関係は今まで我々の経営工学の対象にはなっておらず、いわゆるブルーオーシャンですが、これまで沢山やってきた工業製品とかのノウハウを農業のほうに展開したら、ものすごいことができると思うんです。
齊藤:農業には、高齢化や後継ぎ不足の問題もありますからね…。
大野:農業生産者の平均年齢は68歳で、ここ数年間変わってないんです。それは、農業やってた人がその年齢でやめちゃってるからで、もう限界が近いことを指している。食の安全保障を考えると今すごく危ない状態で、このままでは耕作放棄地が増えて農業が死に絶え、誰も作る人がいなくなってしまう。輸入に依存しすぎないよう、食の自給率を高めて、かつ価値の高い農業生産物を作り輸出まで持って行けるような絵を描いて、DENSOや野村証券など、色んな企業が農業関連に注目し始めているので、そこに経営工学の知見を入れて活性化させたいと思っているんです。
VISION150の策定について、後編へつづく
大野 高裕(おおの・たかひろ)
早稲田大学理工学術院教授
早稲田大学理工学部卒業、同大学院理工学研究科博士課程修了。工学博士。同学部専任講師、助教授を経て、1995年教授。
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